〔10月24日、イオンモール桂川で観てきました。〕
きょうのはなしは、ほぼ消費者法には関係ありません。おそらく。
2026年10月9日に公開された『DIGGER/ディガー』についての感想です。監督はアレハンドロ・G・イニャリトゥ、主演はトム・クルーズ。トム・クルーズが演じるのは、石油採掘会社のCEO、”ディガー”ことロックウェルです。共演はリズ・アーメッド、ジョン・グッドマン、ザンドラ・ヒュラー、ジェシー・プレモンスと絢爛豪華なメンツです。
トム・クルーズといえば、MIシリーズだね。
最新作の「ファイナル・レコニング」もすごかったよね。トムのアクションを点として、それを埋め合わせるようにストーリーをつくってるからか、もう、なんだかめちゃくちゃな話だったけど。
そう、そのトム・クルーズのこれまでのきらびやかな経歴こそが、この映画の一つのポイントでもあるんですよ。
ん? トム・クルーズの経歴がなんで映画に関係があるんだ?
よくわからんな。
あ・・・いけませんね、これ以上は、ネタバレになってしまいます。
※以下、この映画の物語の構造と結末に触れます。知ってしまうととりかえしがつきません。観ていない方は、できれば、これを閉じてすぐに映画館にいって下さい。できればポップコーンもいっしょに買って下さい。
はじめに:ポジショナリティ
さて、よいですか?まだ映画をみていないひとはいないですね?
この映画は、ポジショナリティがテーマの映画だと思います。
ポジショナリティは、社会学などで使われることばです。人は、ある集団に属していることで、本人が望むかどうかにかかわらず、社会の中で一定の位置に立たされ、一定の利害を負っている。その「位置」を問うという考え方です。たとえば、池田緑編著『日本社会とポジショナリティ』(明石書店、2024年)は、この視点から、沖縄と日本の関係やジェンダーなどを論じています。
たとえば、沖縄で基地の負担を負う側と、その恩恵だけを受ける側。あるいは、その場から離れられない人と、いつでも離れられる人。同じ問題を前にしても、立っている位置によって、見えるものも、負うものも違います。
ふん・・・映画を観るのは観客に決まってるじゃないか。そこに、立ち位置もへったくれもあるか。
もちろん、ふつうは、そうです。映画館の客席は、いちばん安全な「見る側」の席です。スクリーンの中で何が起きても、私たちは見ているだけでいい。この映画は、その安全な席を、しつこいくらいに揺さぶり続けるのです。
動き続ける「私たち」の位置
この映画には、大きくわけて、4つの層(レベル)があります。
- 映画館の客席にいる、私たち
- 映画の世界。劇を上演する劇場と、その稽古場
- 劇中劇『Fossil Fools』
- その劇の題材になった、その世界で実際に起きた大災害
まず、上映が始まってしばらく、私たちは『Fossil Fools』の出来事を、同時代の現実として見ています。石油会社のCEOが引き起こす惨事を、外から見ている「見る側」です。
この時点では、観客ー映画内現実という極めてシンプルな関係です。非常にスタンダードですね。
現実っていったって、映画は、そもそもフィクションじゃないか。
いやいや、われわれは、(あえてそう意識しない限り)映画の中の人が「何かを演じているんだ。」とは思っていません。
例えば、MIシリーズをみているときに、「トム・クルーズという俳優がイーサン・ハントというスパイの役を演じているのだなあ」と思うことはありません。そういう意味での「現実」ということで、これを映画内現実と呼んでいます。
しかし、最初の転換(背景に巨大な人間が登場するシーン。これは驚愕でいつまでも忘れられません。)で、それが、実は、舞台の稽古だったと分かります。
私たちは、劇を見ていたつもりが、劇を作る人たちをさらに外から見る位置に移されます(上図の転換点1)。
ここで、私たちは、映画の冒頭の老猫マギーがそういえば明らかに「つくりもの」であった(「映画内現実」にしてはちゃちすぎる)ということ、その他諸々の違和感に気づきます。
この時間差の「気づき」のしかけも、非常に面白いですね。
印象的なのは、政府高官がポップコーンを食べながら、欧州が、アラスカの油田の爆発によって分離した氷山の激突によって大津波に飲み込まれていく映像(映像自体はこの時点ではスクリーンには移りません。)を眺めているシーンです。なんと、このとき、ちょうど私もポップコーンを食べていたのです!(その直後に嘔吐のシーンが入るのも本当にいやらしい演出です。)
そして、さらに次の転換(これは、いろいろなヒントからじわじわとわかっていくので「点」と呼ぶことは正しくないかもしれません)で、さらに、観客のポジションは、移動していきます。実は、その劇は「現代劇」ではなく、過去の悲惨な「実話」(これが映画内現実ですね。)をもとに、長らく再演を重ねてきたものだと分かります。
そこでは、私たちは、もう「惨事」を面白おかしく(ポップコーンを食べながら)外から見る側ではありません。未来の人々から見れば、私たちこそ、その惨事の時代を生き、その時代の恩恵を受けていた側だからです。
欧州議会でのディガーの演説シーンは、映画のハイライトです。
このシーンをもて、正直言って、トム・クルーズがこんなに素晴らしい役者だとは知らず、恥ずかしかったです。MIだけみてるとほんとにアクション大好きにしか見えないので・・・
ふーむ。そういう意味でも観客を揺さぶってるのかもね。
皮肉なもんだね。
まだ終わりではありません。3つ目の転換点が、終演直前に出てきます。
え? まだあるのか?
もうお腹いっぱいなんだが・・・
はい。劇中劇はディガーの死で終わるわけですが、その劇中劇(舞台初日公演)が終わって客電がついた瞬間、会場内に「レベル4」の警告が響きわたり、それまでディガーの最期をみて熱狂的に快哉を叫んでいた観客たちは一斉に(大事件、ということではなくあくまで普通のことだ、というそぶりで)防毒マスクを装着し、劇場を出ていきます。
そして、その劇場の外は水没した街。空にはドローンの群れ、川には廃品を拾う人たち、大量に積み上げられた廃車と戦車と銃を手にした軍隊、という状況だったのです(これが「映画内現実」です。)。初演から25年後の世界も、まだその過去を克服できていなかったのです。悲惨な現実は、大災害の時点から劇場のある未来まで、途切れずに続いていたのです。
出ていける私たち、出ていけない彼ら
そして、(しつこいですが)まだ転換点があります。それは、映画が終わった後のエンドロールで突然エンディングの音楽がとまり、「レベル4」の警告が、実際の映画館内に響き渡ります。
ここに残っているのは、映画館にいる私たちだけです。あくまで「見る側」だった私たちが、最後に名指される側に回るのです。
映画内現実が、スクリーン(「第4の壁」ともいわれます。・・・レベル4ということばもこの第4の壁と無関係ではないでしょう。)を突き破ってきたわけです。
へえ・・・もしエンドロールの途中で席を立ってたら、聞き逃すところだね。
私たちは、映画が終われば映画館を出て、いつもの街に帰ることができます。マスクも要りません。劇場の観客と私たちとの間には、その場から出ていけるかどうかという、はっきりした違いがあります。
しかし、映画は、私たちが、その大災害(ポスターには「2027年」とあります。)の前夜に座っていることを告げて終わります。いま、私たちが映画館から水没していない街に出ていけるのは、まだその前夜だからにすぎない、ということです。
映画のほうから客席に話しかけてくる、というわけか。
そうなんです。
むすびに:見る側にとどまれない
ポジショナリティ論が問題にするのは、自分がどこに立っているのかを、自分ではなかなか自覚できない、ということです。とくに、恩恵を受ける側、負担を負わない側に立つ人ほど、自分の位置が見えにくい。基地の負担をめぐって、負担を負わない側こそ自分の位置に気づきにくい。
いわゆる「リベラル」が嫌われるのも、自分たちは安全地帯にいるのに「弱いものの味方です」みたいな顔をするからだよな。
この映画は、その見えにくさを、映画という形式そのもので体験させます。私たちは、まず、はじめ安全な客席から惨事を眺めています。へえ、こいつら、マジでトランプみたいだな、馬鹿だなー、という感じで。
トム・クルーズは、それを救うスーパーヒーローになるんだ、という期待も、その時点では、観客の中にあるよね。
そのとおりです。トム・クルーズは、ずっと「世界を救う男」を演じてきた俳優です。MIシリーズのイーサン・ハントは、毎回、世界の危機を自分の体ひとつで食い止めるとんでもない人間です。また、『トップガン マーヴェリック』(2022年)は、コロナ禍で遠のいた観客を映画館に呼び戻した、と言われました。
私たちは、トム・クルーズが画面に出てくれば、世界は救われるものだと、どこかで思っています。この映画の宣伝も、その期待をなぞっています。地球滅亡の危機を前に、ディガーが世界を救うべくシャベルを手に立ち上がる。
しかし、実際には、その危機を招いたのは、ほかならぬディガー自身でした。
つまり、私たちは、「世界を救うトム・クルーズ」を見に来た観客として、客席に座ります。救われる側、見守る側という、いちばん安全な位置です。この映画は、トム・クルーズのきらびやかな経歴そのものを使って、私たちをまずその位置に座らせていたのです。
なるほどな。
キャスティングでトム・クルーズを選んだことから、この映画の仕掛けははじまっているんだな。
たしかに、トムが出てくると、なんとかしてくれる気がしちゃう。
しかし、もし、そんな話なら、正直言って、観るに値しないクソ映画です。
ところが、その後、繰り返しの転換のたびに、観客は自分の位置をずらされ、最後には、惨事の時代を生き、その恩恵を受けている当の世代として名指されます。見る側だったはずの私たちが、見られる側に回るのです。
冒頭に紹介した本では、DV の被害者と支援者の関係について、被害者はその場から離れにくいのに、支援者はいつでも離れられる、という「離脱可能性における非対称性」が論じられています。映画の最後も、これに重なります。劇場の観客は、水没した街へ出ていくしかありません。しかし、私たちは、映画館を出て、いつもの街に帰ることができます。
ポジショナリティ論は、位置の違いを自覚するだけで終わりにはしません。違いを認めたうえで、その状況を変える意志を共有することを求めます。客席を立ったあと、私たちはどこに立つのか。それが問われています。


