「港区と欧州車とロレックスを手に入れれば一流だと思われる。下らないことだ。何の意味も無い。要するにね、僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。自然に生まれるものではない。でっちあげられるんだ。誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだ。簡単だよ。情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区、車ならBMW、時計はロレックスってね。ある種の人間はそういうものを手に入れることで差異化が達成されると思ってるんだ。みんなとは違うと思うのさ。そうすることによって結局みんなと同じになってることに気がつかないんだ。」
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』
講談社文庫
目次
はじめに:「これからの消費者法」
なになに?
いきなり村上春樹の話?
きょうは、特定の事件や問題についてのニュースではなく、すこし違った切り口から、おはなししようと思います。
いま、私が所属している京都弁護士会の消費者保護委員会というところで、弁護士が集まって、こんな本を読んでいます。
谷本教授・坂東教授・カライスコス准教授という、民法・消費者法の分野で活躍されている先生が共著で書かれた本です。
外部リンク:谷本圭子・坂東俊矢・カライスコス アントニウス「これからの消費者法」法律文化社
ほう、けっきょく、法律のはなしじゃないか。
弁護士は、事件のこと以外でも勉強しないといけなくて、大変だな・・・。
どんな本なの?
法律の学者の先生が3人も集まってるということなら、むずかしいことが、たくさんかいてありそうだ。
いやいや、まったく、むずかしい本ではありません。
気軽に、肩の力を抜いて読むことができる本ですよ。みなさんにもおすすめです。
このブログでも、これまで、クーリング・オフとか、あるいは製造物責任だとか、すでに「過去」に起こってしまった問題についてどう解決するか、というお話を主にしてきました。
ところが、この本は、タイトルからもわかるように、「これからの」ことを考える、「未来」のことを考えよう、という本なのです。
「自分は何を消費しているのか?」
さて、この本は、やわらかい筆致で書かれており、ひといきに読めてしまう本(それは、内容がとても練られているからです。)です。
もっとも重要な章は、Part4「自分は何を消費しているのか?」というところだと思います。
ふーむ。
何を消費しているのか。なんだか、禅問答みたいだな。そういうのは、正直いって、苦手だな。
例えば、ハンバーガーを食べる人は、ハンバーガーを消費しているに決まっているだろう。終わり。
はい。そうですね。ところが、この本は、そうではない、ということをいっています。
ハンバーガーを食べる行為は、いったい、どういうことか、ということをもうちょっと立ち止まって考えてみよう、ということですね。
消費者が感じる4つの「価値」:安さ・個性・便利・希少
まず、この本は、消費者がモノやサービスを「消費」するときに、魅力を感じる4つの価値をあげています。
1つ目は、「安さ」です。
そりゃ、安いほうがいいよね。
同じものなら。
そうですね。単に「安い」だけでは、価値になりません。ここでは「同じものなら安いほうがいい」というのが、テーゼということになります。
同じもので高ければ競争に負けるだけです。ですので、安くするためには同じものをたくさんつくる、ということが必要になってきます。
次にいきます。
2つ目は、「個性」です。
そうだな。服なんかでも、安くても、自分にあわなければ、いらないしな。
自分にあったものがほしいよな。
では、「個性」とは、いったい何でしょうか。
辞書的にいいますと、「じぶんだけがもっている、ほかのひととちがう固有の性質」ということでしょうか。では、その固有の性質は、どうやってみつけ、把握するのでしょうか。
そりゃ、いろいろ雑誌とか、インターネットとかみて、自分が好きだなあ、自分にぴったりだなあ、いいなあ、と思うものが「個性」なんじゃないの?
そうですね。自分の顔を鏡でみてにらめっこしているだけでは、「個性」はわかりませんよね。ほかのものや、あるいは、ほかのひとをみて、じぶんの「個性」をみつけていく、ということになりますね。
3つ目は、「便利」です。家電でもPCでも、「前より便利」ということがやはりポイントになってきますよね。
そうだな。
電子レンジにしても、洗濯機にしても、むかしのやつより、つかいやすくなってるよな。たすかる。
4つ目は、「希少・高価」です。
え?「希少」はわかるけど、「高価」というのは、よくわからないなあ。高いより安いほうがいいでしょ。
そもそも、さっきの1つ目の「安さ」というのと矛盾するんじゃないの?
そうみえますね。しかし、たとえば、価格が高いチョコレートほどよく売れる、ということを聴いたことがありませんか?
このように、「高価であること」自体が、価値になることもあるのです。それは「安さ」が価値となる場合と対照的です。
安さが価値になるのは、「同じもので、しかも安い」という場合だけですが、「高さ」が価値となる場合は、「違う、希少である、唯一である」という場合です。
ふむ。これは、2つ目の価値の「個性」と同じような話だな。
個性的を突き詰めると、オリジナルになる。オリジナルなものは、大量生産できないから、高い、と、こういうわけか。
オッケー、ここまでは、大体わかったよ。
消費者は、消費する際に、この4つの価値を判断して行っているということだ。
そうか、ハンバーガーを食べる際も、「安い」(チェーン店の安いハンバーガー。)か、「個性」的か(かわった具材を使っている。インスタばえする。)、「便利」か(家まで届けてくれる。)、「希少・高価」か(何千円もする高級ハンバーガーもあります。)とかを考えてるわけだね。
モノやサービスの「価値」は、つくられている
では、このような「価値」は、どのようにして生まれるのでしょうか。もともと「価値」が高いものがあって、わたしたちは、それを「発見」するのでしょうか。
それとも「価値」は、だれかによって、つくられているのでしょうか。
この本では、その点はあまり掘り下げられないまま、「現代では、ひとびとは、商品の価値を判断する尺度を失っている」、という話になっていますが、このブログでは、それをもうちょっと掘り下げてみましょう。
まず、1つ目の「安さ」と4つ目の「高さ」ですが、これは、明らかにつくられていますね。だって、人が値付けをするわけですから。もともと「高い」ものや「安い」ものがあるわけではないですね。
次に、3つ目の「便利」さ、これはどうでしょうか。
これは、もともとあるんじゃないかな。
便利なもの、便利でないものは、明らかにあるよね。
そうだな。まあ、「便利だ」っていっても、パソコンなんか、ここ10年くらいは、そもそも、本当に便利になっているのかよくわからんぞ。
電子レンジなんかも昔のシンプルなヤツのほうが使いやすかった、ということもあるしな。
壊れにくかったような気もするし。
「便利さ」の定義にもよると思いますが、新製品によって前よりも明らかに生活の質が向上した、というものは、そんなに多くない気がしますね。
そうそう、SHOさん、「ガジェット」ということばを、最近良く聞きませんか?
ああ、よく聞くな。最新の電子機器とか。
正直、便利なのかどうかはよくわからんけど、なんとなく持っているだけでうれしいというか、かっこいい感じがするよな。
そうです、「ガジェット」が、その最たるものだと思います。決してそれがないと困る、というわけではないが、なんとなく便利そうで、かっこいいから持っている、というもの、ありますよね。
そうすると、「便利さ」も、実際の便利さではなく、「まえよりも便利ですよ」「最新型」という広告や宣伝などの影響がずいぶんあるかもしれませんね。
そうだね、家電とかも、最近、とてもカラフルになったり、おしゃれになってるけど、じゃあどれだけ便利になったのか、といわれると。
商品の価値は、差異化=個性の記号である
そうです。カラフルになっているということと関連しますが、現代の消費でもっとも重視されているのは、やはり、この2つめの「個性」ですね。
うーん、個性。
これこそが、もともと、価値として備わっているものだ、ということじゃないかな?
ほら、いまはあんまりいわないけど、「自分さがし」っていうでしょ。買い物を通じて、自分をさがす、ということなんじゃない?
どう、うまくまとまった?この本はこんなことがいいたいのかな?
いやうや、ところが、そうではないのです。
むしろ、この「個性」こそが、この4つの価値の中で、もっとも、人為的につくられているものなんですよ。
どういうことだ?
ここで、消費という行為や消費社会を論じるにあたって、いまや古典となっている本を紹介します。
フランスの哲学者ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」です。
ボードリヤールは、この本で、商品の価値は、商品に付与された差異化の記号(コード)にほかならない、としています。「差異化」というのを、ここでは「個性」と読み替えてもらっても差し支えありません。
ええと、つまり、どういうこと?
私たちは、「これこそがわたしにぴったりだ」「わたしらしいものだ」と思ってものを買うよね。
たとえば、それを「A」としましょう。これは、「A’」とは確かに違います。それは、商品をつくる人が「A」は「A’」とは異なる、といって売り出しているからですね。でも、「A」を持っている人は、KONさんだけではなく、ほかにもいるのです。
では、KONさんは、「自分らしさ」を求めるためには、今度は、「B」を買います。しかし、これも、商品Bをつくる人が「B’」と異なる、といって売り出しているからにほかなりません。
以下、同じ。その行動に、終わりはありません。
ボードリヤールは、このような消費について、ひとびとは、自由な意思で自分らしさを探している、と思っているかもしれないが、実際には、強制的に、「差異化」=個性の記号体系へ服従させられているのだ、と看破したのです。
冒頭に引用した村上春樹の小説「ダンス・ダンス・ダンス」の一節は、この物語の重要な人物である「五反田くん」という映画スターのセリフです。
これは、まさにボードリヤールの言っていることとおんなじですね。
五反田くんはだれもがうらやむイケメンで、お金持ちなのですが、つかれきっています。
これは、現代社会の「消費」による疲れです。
ですので、このブログのタイトルに対する答えは、消費者は、「記号」を消費しているのだ、ということになりますね。
自らの価値判断基準とは
さて、すこし脱線したので、「これからの消費者法」に戻りましょう。
商品やサービスを選ぶにあたって、「価値判断基準」を失っている消費者の現状、というところでしたね。
これは、なぜ価値判断基準を失ったか、というと、それは、もう、さきほどの話をふまえれば、こんにちの資本主義社会においては、必然であるわけですね。
ええと、そうだな、いまでは、けっこう簡単に、安く、便利なものが手に入るわけだから、消費者は、他人との違いを出すために、むしろ高価で希少なものや個性的なものを買おうとする。
それこそが「自分らしさ」をあらわすものだからだ。
でも、個性や希少性なんて、そもそも人為的につくられたものなんだよね。
それを、がんばって「みんなと違うから」と思って「選ぶ」ことは、自由でなくて、むしろ服従なんだよね。
そうです、どのような意味でも、価値判断基準、というものがもてなくなる社会なのです。
じゃあ、その無限のループ(ボードリヤールは、これを「地獄のロンド」と呼びました。)に入らないようにするには、どうしたらいいか。
「これからの消費者法では」、まずは、他人や情報に踊らされずに、自らの価値基準をもつこと、ということが推奨されています。
むう。
しかし、それって、難しいよな。
高さ、安さ、便利さ、個性、それ以外に、いったい、何を基準にしたらいいのかな。
そうですね、そこは難しいところです。資本主義社会において、確固たる自らの価値基準をもつ、ということは極めて困難な抗いになります。山奥で仙人のように暮らすのであれば、別ですが。
むしろ、「これこそが、他に流されない、自らの価値基準だ!」と思い込んでしまう人は、かえって情報にほんろうされやすい人ではないかとすら思います。
「自分は、オレオレ詐欺に引っかからない」と思っている人ほどひっかかる、という話もあるよね。
とはいえ、やはり、情報とうまくつきあう、「踊らされる」にしても、それなりにうまく踊る、ということは、必要になってくるのだと思います。
この本では、以下、消費者として、自分をとりまく膨大な情報との付きあい方、そして、消費者教育の重要性へと続いていくのですが、それは、この本の肝とも言える部分です。ぜひ、みなさんでこの本を読んでみてください。
むすびに
えー、いいとこなのに。
それにしても、なかなかおもしろそうな本だね。
ちょっと読んでみようかな。
そうですね。
個々の法律についても概略が解説されていたりしますので、弁護士や消費生活相談員などの専門家だけでなく、これから消費者法の勉強をはじめるよ、という方などにとっても、よい本だと思います。